なぜ人は他人の目に苦しむのか?禅僧とアドラーの対話
「もっと、自由に生きたい」
そう願っているのに、なぜ私たちはこんなにも、自分を苦しめてしまうのでしょうか?
人の目が気になる。比べなくていいと分かっているのに、つい比べてしまう。
認められたい、嫌われたくない、仲間はずれにされたくない。
そんな思いに心が揺さぶられ、気がつけば、自分の人生を生きているはずなのに、どこかで「誰かの評価の中」を生きてしまっている。
そのような感覚を、あなたも一度は味わったことがあるかもしれません。
この対話は、そんな「心の苦しみ」に静かに光を当てるために生まれました。
ひとりは、禅の道を歩む僧侶。
もうひとりは、人間の悩みを深く見つめ続けた心理学者、アドラー。
東洋と西洋。宗教と心理学。
一見すると、まったく異なる世界に立つ二人です。
けれど、そのまなざしが向かう先には、驚くほどよく似たものがあります。
それは、「人はなぜ苦しむのか」という問いであり、
「どうすれば、人はもっと、自由に生きられるのか」という、切実で普遍的なテーマです。
比べる心。劣等感。孤独。承認されたいという思い。
自分はこのままでは足りないのではないか、という不安。
誰かより、上でなければ安心できない心。
そして、愛したいのに執着し、支えたいのに背負いすぎてしまう、人間の切なさ。
そうした、誰の中にもある苦しみに対して、
禅はどんなふうに語るのでしょうか。
アドラーは、どんな言葉で応えるのでしょうか。
これは、難しい思想を並べるための対話ではありません。
あなたの毎日の中にある悩み
人間関係に疲れた日、
自分を責めてしまう夜、
誰かの言葉に傷つき、心が小さくなってしまったときに、
そっと開いてほしい対話です。
読んですぐに、すべての答えが出るわけではないかもしれません。
けれど、読み終えたとき、
少しだけ心が静かになっている。
少しだけ、自分を責める手をゆるめられる。
少しだけ、「このままでも、ここから生きていける」と思える。
そんな言葉が、ここにはあるかもしれません。
もし今、あなたが
「自由に生きたいのに、なぜこんなに苦しいのだろう」
と感じているのなら、
この静かな対話の縁側に、どうぞ腰を下ろしてみてください。
禅僧とアドラーの言葉は、きっとあなた自身の心の奥にも、何かをそっと響かせてくれるはずです。
「人は、どうすれば自由に生きられるのか」

ある静かな夕暮れ、山寺の縁側に、
ひとりの禅僧とアドラーが腰を下ろしていました。
風が竹を揺らし、遠くで鳥の声がしました。
ずいぶん静かな場所ですね。
ここにいると、人は少し、自分の悩みを忘れられそうです。
禅僧
そうかもしれませんね。
ただ、静かな場所では、悩みを忘れる方もおられますが、
かえって自分の心が、よく見えてくる方もおられます。
静けさというのは、心の声を隠さないものですから。
アドラー
なるほど。
私も、人の悩みの多くは、対人関係から生まれると考えています。
けれど人は、それをつい「相手のせいだ」と捉えてしまうのです。
禅僧
ええ、それはよくありますね。
「あの人が悪い」「環境が悪い」「昔あんなことがあった」
そう考えておりますと、心はいつまでも外に引っぱられてしまいます。
禅では、まず自分の足元を見ることを大切にいたします。
いま、ここで苦しんでいるのは誰なのかと。
アドラー
それは、私の考え方にも通じます。
私は、人は過去の原因に縛られて生きているのではなく、
未来の目的に向かって行動していると考えます。
禅僧
未来の目的、ですか。
アドラー
ええ。
たとえば「傷ついたから動けない」のではなく、
動かないことで、自分を守っていることもあるのです。
そう考えると、人は過去の犠牲者であるだけではなく、
自分の人生に関わる主体でもある、ということになります。
禅僧
それは大切なお考えですね。
臨済の教えでも、どのような場所にあっても、
自分が主人となって生きることが大事だと申します。
人の目や周囲の空気にばかり左右されておりますと、
自分の人生を生きているとは言えなくなってしまいます。
アドラー
本当にそうですね。
けれど多くの人は、他人と自分を比べてしまいます。
認められたい、劣っていたくない、負けたくない。
そこから苦しみが始まります。
禅僧
比べる心は、なかなか根深いものですね。
けれど、桜が梅になろうとすることはありませんし、
月が太陽になろうとすることもありません。
それぞれに、そのままの役割と美しさがあります。
人だけが、つい別の誰かになろうとして苦しくなるのでしょう。
アドラー
私は、劣等感そのものは悪いとは思っていません。
それは、よりよく生きたいという願いの裏返しでもあります。
けれど、それが他人より上へという方向に向かうと、
人生は競争になってしまうのです。

禅僧
ええ。
外の誰かに勝つことばかり考えておりますと、
自分の内側にある怒りや執着には、なかなか気づけません。
けれど、本当に苦しめているのは、案外そちらのほうかもしれませんね。
アドラー
まったく同感です。
そして人は、自分のことばかり考えなくなったとき、
少し自由になります。
私はそれを、共同体感覚と呼んでいます。
他者を仲間と見て、
私はここで何を差し出せるだろうと考える感覚です。
禅僧
それは、仏教で申します慈悲に、どこか通じるものがありますね。
自分だけの幸せを握りしめようとすると、
かえって心は狭くなってしまいます。
けれど、人の苦しみに目を向けたとき、
自分の苦しみもまた、少し姿を変えて見えてくることがあります。
アドラー
ええ。
ただ、そのときに無理をしすぎてはいけませんね。
他人を助けようとして、自分がつぶれてしまうこともあります。
禅僧
それも、よくあることです。
やさしさのつもりが、いつのまにか自分を削ってしまう。
ですから、慈悲には智慧も要るのでしょうね。
アドラー
その智慧として、私は「課題の分離」を大切にしています。
これは誰の課題なのか。
そこを見誤ると、相手の人生まで背負い込んでしまいます。
禅僧
なるほど。
それはとても大事なことですね。
手を差し伸べることはできても、
相手の代わりに生きることまではできません。
師匠が弟子の代わりに悟れないのと、少し似ております。
アドラー
そうですね。
支えることはできる。
けれど、歩くのはその人自身です。
禅僧
ええ。
見守るというのもまた、深い愛のかたちなのだと思います。
しばらく二人は黙って、庭の木々を見つめていました。
夕暮れの光が少しずつやわらいでいきます。
アドラー
では、最後にひとつお聞きしたいのです。
人は、どうすればもっと自由に生きられるのでしょうか。
禅僧
そうですね。
まず、他人の目で自分を量りすぎないこと。
そして、過去の物語の中に住み続けないこと。
そのうえで、今日ここで、自分にできる一歩を丁寧に引き受けることではないでしょうか。
アドラー
美しい言葉ですね。
私なら、こう申します。
他者と競争する人生を降りて、
他者とつながり、貢献する人生へ向かうこと。
それが人を自由にすると。
禅僧
ええ、とてもよくわかります。
比べることをやめ、
逃げることをやめ、
今ここを、自分の足で生きていく。
それだけでも、人の心はずいぶん静かになるのでしょうね。
アドラー
はい。
心理学と禅は、言葉は違っても、
ずいぶん近い景色を見ているように感じます。
禅僧
本当にそうですね。
大切なのは、難しい言葉ではなく、
その人が今日をどう生きるか、なのかもしれません。
風がまた、竹を静かに揺らしました。
二人はその音に耳を澄ませながら、しばらく何も言いませんでした。
けれど、その沈黙の中にも、深い対話が続いているようでした。
人は、なぜこんなにも他人の目を気にするのでしょうか

庭の木々が夕闇に少しずつ溶けていきました。
縁側に座る二人のあいだには、静かな沈黙が流れていました。
やがて、アドラーがゆっくり口を開きました。
アドラー
ひとつ、ずっと考えていることがあります。
人はなぜ、あれほど他人の目を気にするのでしょう。
本当は自由でありたいと願っているのに、
評価されることや、否定されることに、深く縛られてしまう。
禅僧
ええ。
それは、多くの方が抱えておられる苦しみですね。
人にどう見られているか。
嫌われていないか。
認められているか。
そうしたことが気になって、心が休まらなくなる。
けれど、その苦しみの根には、
自分はこのままでは足りないのではないか
という思いがあるのかもしれませんね。

アドラー
まさにその通りです。
私はそれを、劣等感と呼びます。
ただし、それ自体は悪いものではありません。
人がよりよくなろうとする出発点でもある。
問題は、その劣等感を、
だから私はだめだ
という絶望に変えてしまうことです。
禅僧
なるほど。
足りなさを感じること自体は自然でも、
それを自分を責める材料にしてしまうと、苦しくなるわけですね。
アドラー
ええ。
本来、劣等感は「成長への方向」を示すものです。
けれど、人はそれを直視するのがつらい。
すると、二つの方向へ逃げやすくなります。
ひとつは、どうせ無理だとあきらめること。
もうひとつは、誰より上に立たねばならないと考えることです。
禅僧
あきらめと、優越ですか。
アドラー
ええ。
一見まったく違うようですが、
どちらも比較に支配されています。
下にいる自分を嘆くか、
上に立って安心しようとするか。
けれど、どちらも他人を基準にしている。
だから、いつまでも心が落ち着かないのです。

禅僧
深いですね。
禅でも、自分を大きく見せようとする心、
あるいは逆に、自分を小さく決めつける心は、
どちらも我のはたらきとして見ます。
誇る心も、卑下する心も、
どちらも自分にとらわれている。
その意味では、表と裏ほどの違いしかないのかもしれません。
アドラー
ええ、私もそう思います。
自分はすごいも、自分はだめだも、
じつはどちらも自分のことばかり考えている状態です。
その輪から出るには、
自分をどう見せるかではなく、
自分をどう使うかへ、関心を移す必要があります。
禅僧
どう見せるかではなく、どう使うか
それは本当に大切な視点ですね。
仏教でも、この身この心を、
何のために用いるのかが問われます。
評価を集めるために使うのか。
それとも、誰かを生かすために使うのか。
そこで、人生の香りがずいぶん変わってまいります。
アドラー
ええ。
そして、人は承認を求めすぎると苦しくなります。
もちろん、認められたいという思いは自然です。
けれど、承認を人生の中心に置くと、
他人の期待に合わせて生きるしかなくなる。
すると、自分の人生を生きているようで、
実は観客のための人生を演じることになってしまうのです。
禅僧
観客のための人生、ですか。
たしかに、そのようなことはありますね。
人の拍手があるうちは安心する。
けれど、拍手が止むと、急に不安になる。
それでは、心の土台が外側にあるままです。
外にあるものは、いずれ揺れますから、
そのたびに自分も揺れてしまいます。
アドラー
ええ。
だから私は、
他者から承認されるために生きない
ということが大切だと考えます。
禅僧
それは厳しいようでいて、
本当はやさしい教えかもしれませんね。
承認を求め続ける人生は、疲れます。
しかし、承認から少し離れることができれば、
人はもっと静かに、自然に生きられる。
アドラー
そうですね。
ただ、多くの人はそこで不安になるのです。
認められなくなったら、自分には価値がないのではないかと。
禅僧
ええ、それはよくわかります。
けれど本来、価値というものは、
拍手の数で決まるものではありません。
臨済では「無位の真人」(むいのしんにん)と申します。
肩書きも、評価も、立場も離れたところに、
それでも失われない、その人の本来の尊さがある。
何者かである前に、
すでに、かけがえのない命としてここにいる。
まずは、そのことを信じたいものですね。
アドラー
それは、とても美しい考えです。
私の言葉でいえば、存在そのものに価値がある、ということになるでしょう。
人は、成果があるから価値があるのではない。
役に立っていると実感できることは大切ですが、
その土台には、
あなたは「居ていい」
という感覚が必要です。
禅僧
そうですね。
「居ていい」という感覚がないままでは、
どれほど努力しても、
心の底ではずっと不安が残るでしょう。
だからこそ、修行というのは、
何か特別な力を得ることではなく、
このままで、すでに命は尊い
という事実に、少しずつ目を開いていくことなのかもしれません。
アドラー
すると、修行とは不足を埋める作業ではなく、
すでにあるものに気づくことでもあるのですね。
禅僧
ええ、私はそう思います。
もちろん、人は未熟ですし、学びも必要です。
けれど、未熟であることと、無価値であることは違います。
未熟でも、悩んでいても、傷ついていても、
その人の命まで傷むわけではありません。
曇り空の日でも、空そのものは失われておりませんから。
アドラー
素晴らしい比喩ですね。
人はしばしば、感情や失敗を自分そのものだと思ってしまいます。
でも、感情は天気のように移ろう。
それを自分の全部だと思わないことが大切です。
禅僧
はい。
怒りの日もありましょう。
悲しみの日もありましょう。
けれど、怒りそのものがその人ではありませんし、
悲しみそのものがその人でもありません。
ただ、今その心が、そういう天気になっている。
そのくらいに見つめられると、
人は少し自由になれますね。
アドラー
ええ。
そして自由とは、
好き放題に振る舞うことではありません。
自分の課題を引き受け、
他者の課題を尊重し、
そのうえで共同体の中に自分の場所を見いだすことです。
孤立ではなく、つながりの中の自由です。
禅僧
つながりの中の自由
それは、実に大切な言葉ですね。
禅でも、ひとりで坐りますが、
ひとりだけで生きているわけではありません。
人は縁の中にあります。
ですから本当の自由とは、
誰とも関わらないことではなく、
関わりの中で執着しすぎないことなのかもしれません。
アドラー
ええ。関わる。愛する。貢献する。
けれど、支配しない。
そこに成熟があります。

禅僧
なるほど。
愛しているつもりが、
いつの間にか相手を自分の思いどおりにしたくなる。
それは確かに、よくあることです。
ですから愛には、手放す智慧も必要なのですね。
アドラー
その通りです。
愛も友情も、本来は対等でなければなりません。
上下が生まれた瞬間に、
それは支配と服従になってしまいます。
禅僧
ええ。
対等というのは、美しいことですね。
仏教でも、仏は特別な誰かだけを照らすのではなく、
あらゆる命を分け隔てなく照らします。
上から見下ろすのではなく、
同じ苦しみを生きる者として向き合う。
そこに、本当の慈悲があるように思います。
またしばらく、沈黙が流れました。
空には、淡い月がのぼり始めていました。
アドラー
こうしてお話ししていると、
自由とは、何かを手に入れることではなく、
いらないものを少しずつ手放していくことのように思えてきます。
禅僧
ええ。
見栄も、比較も、過去への執着も、
こうでなければならないという思いも。
そうしたものを一つずつ緩めていくと、
人はだんだん軽くなってまいります。
そして軽くなったぶんだけ、
ようやく他者にもやさしくなれるのでしょうね。
アドラー
はい。
結局、人が救われる道というのは、
自分だけを大事にする道ではなく、
自分を大切にしながら、他者ともつながる道なのでしょう。
禅僧
まことに、その通りだと思います。
自分を粗末にしてもいけませんし、
自分だけを抱え込んでもいけません。
そのあいだの、静かな中道を歩めるとよいのでしょうね。

二人は月を見上げました。
答えが出たというよりも、
答えを急がなくてよい夜が、
そこにありました。