ある日の夕暮れ。
祇園精舎には、静かな風が吹いていた。
修行を終えた弟子たちは、
お釈迦さまのもとへ集まり、
それぞれに心の悩みを語っていた。
ある弟子は、
人から悪口を言われた苦しみを。
ある弟子は、
過去の失敗への後悔を。
またある弟子は、
将来への不安を抱えていた。
弟子たちの話を、
お釈迦さまは静かに聞いておられた。
しばらく沈黙が流れたあと、
お釈迦さまは穏やかに口を開かれた。
「では、お前たちに一つの話をしよう」
弟子たちは静かに耳を傾けた。
「毒矢の男」
「昔、ある男が毒矢で射られた。
矢には強い毒が塗られており、
放っておけば命を落とすほどであった。
家族や仲間たちは慌てて医者を呼び、
すぐに矢を抜こうとした。
しかし男は、
苦しみながらこう言った。
『待て。その前に教えてくれ。この矢を射ったのは誰だ。
男か、女か。どこの村の者か。
弓は何でできている。矢羽は何の鳥の羽だ。
それを知らなければ、私は矢を抜かせない』
周囲の者は驚いた。
『そんなことをしている場合ではない。
早く矢を抜かなければ死んでしまう』
だが男は聞かなかった。
『なぜ私がこんな目に遭わねばならない。理由を知るまでは、私は納得できぬ』
「そうしているうちに、毒は全身へ回り、男は命を落としてしまった」
話が終わると、弟子たちは黙り込んだ。
夕暮れの風だけが、木々を静かに揺らしていた。
やがて一人の弟子が尋ねた。
「世尊よ。
その男は、
なぜ矢を抜かなかったのでしょうか」
お釈迦さまは静かに答えられた。
「人は苦しみを受けた時、まず理由を探そうとするからだ」
弟子たちは、さらに深く耳を傾けた。
「誰が悪いのか。
なぜ自分だけが苦しむのか。
どうしてこんな人生なのか。
その問いに囚われ続けると、
心の毒は、
ますます深く広がっていく」
お釈迦さまは、
弟子たち一人ひとりを見つめながら言われた。
「大切なのは、まず矢を抜くことだ。
怒りに飲まれているなら、
『ああ、今、自分は怒っているのだな』
と気づきなさい。
悲しみに沈んでいるなら、
『今、自分は悲しんでいるのだな』
と静かに見つめなさい。
気づくことによって、
人は初めて、
苦しみに飲み込まれずに立つことができる」
弟子たちは、深く頭を下げた。
空には、静かな月が浮かんでいた。
その夜、弟子たちは、自分の心にもまた、
見えない矢が刺さっていることを知ったのである。