盤珪禅師が語る「空」のはなし
みなさん、ようこそお参りくだされた。今日は「空(くう)」の話をいたそうと思う。
空と聞くと、たいていの人は「何もないこと」と思うておられる。
むなしいこと、からっぽのこと、と。
それで「仏教は虚無の教えじゃ、暗い教えじゃ」などと言う人もある。
これはとんでもない取り違えでござる。
空というは「何もない」ということではない。
「決まりきったものは、何ひとつない」ということじゃ。
この二つ、似ているようでまるで違う。
今日はその違いを、難しい学問の言葉を使わずに、皆の衆の暮らしの中の話でゆるりと説いて進ぜよう。
短気は生まれつきか
まず一つ、話をしよう。
あるとき、一人の男がわしのところへ来て、こう言うた。
「和尚さま、私は生まれつきの短気者で、すぐにかっとなって人と争います。親からもろうた性分ゆえ、直そうにも直りませぬ。どうしたらよいでしょうか」と。
わしは答えた。
「それはまた、面白いものを親からもろうたのう。して、その短気、いまここに、ござるか。あるなら出してみなされ。この場でわしに見せてくだされば、直して進ぜよう」
男は困った顔をして言うた。
「いまはございませぬ。何かの拍子に、ひょっと出るのでございます」
「それ見なされ」とわしは言うた。
「いまはない。何かの拍子に出る。ということは、短気は生まれつき腹の底に住まうておるのではない。相手の一言があり、こちらの虫の居所があり、その場の成り行きがあり、それらが寄り合うた拍子に、そなたが自分でこしらえて出しておるのじゃ。親が産みつけてくだされたのは仏心ひとつ。短気などというものは、そなたが後からその場、その場でこしらえる作りものでござるよ」
男は狐につままれたような顔をしておったが、この話こそ、空の話のいちばんの入口でござる。短気というものに、固い正体はない。探せば見つからず、条件が寄れば現れ、条件が散れば消える。あるようでいて、つかめるものではない。これを昔の言葉で「実体がない」「自性(じしょう)がない」と申す。空とは、まずこのことじゃ。
鏡のはなし
わしはよく鏡の話をする。
ここに一面の曇りない鏡があるとしよう。鏡の前へ赤い花を持ってくれば、赤い花が映る。鳥が飛べば鳥が映る。怒った顔を持ってくれば、怒った顔がそのまま映る。ところが鏡そのものは、赤くも染まらず、鳥にもならず、怒りもせぬ。映したものが去れば、あとには何も残らぬ。
しかもここが肝心じゃが、「何も残らぬ」からこそ、次に来るものを、そっくりそのまま生き生きと映すことができるのでござる。もし鏡に赤い色がしみついてしもうたら、その鏡はもう白い花を白と映せぬ。昨日の客の顔が貼りついておったら、今日の客の顔が歪んで見える。
空というは、この鏡の性(しょう)のようなものじゃ。何もとどめぬから貧しいのではない。何もとどめぬからこそ、万物がそのままに現れる。からっぽの器だけが水を受けられるのと同じ理屈でござるよ。
烏の声、雀の声
もっと手近な証拠を挙げよう。
わしがこうして話しておるあいだにも、外で烏が鳴けば、みなさんは「ああ、烏じゃ」と聞き分けなさる。雀が鳴けば「雀じゃ」と聞き分けなさる。「よし、今から烏の声を聞き分けるぞ」と身構えた人は一人もおるまい。聞こうと思う前に、ちゃんと聞こえて、ちゃんと分かる。誰に習うたのでもない。
これが、みなさんが親から産みつけてもろうた仏心の、もともとの働きでござる。そしてよう見なされ、この働きには「わし」という固いかたまりが要らぬ。声が来て、耳があって、静かな朝があって、それで聞こえる。どれ一つ欠けても聞こえぬ。「聞く」というたった一事すら、無数の条件が寄り合うてできておるのじゃ。
これを昔の言葉で「縁起(えんぎ)」と申す。
縁(よ)って起こる。寄り合うて生じる。
空とは、この縁起というものを、裏から言うたまでのことでござる。寄り合うてできたものには、それ一つで立つ正体がない。正体がないから空。同じことの表と裏じゃ。
一膳の飯の中に
今朝、みなさんは、飯を食うて来られたろう。その一膳の飯、茶碗の中だけを見ればただの飯じゃが、少し目を広げてみなされ。百姓の汗があり、去年の日照りと今年の雨があり、種を継いできた先祖代々の手があり、飯を炊いた者があり、その者を産み育てた親があり、竈の薪を伐った者があり――たどればきりがござらぬ。
一粒の米の中に、天と地のいっさいが入り込んでおる。米が、米ひとりの力で米になったのではない。
これを「米には自性がない」と申すのじゃが、自性がないと聞くと、何やら損をしたように思う人がある。逆でござるよ。自性がないからこそ、米は炊かれて飯になり、飯はみなさんの血肉になり、その血肉が今朝ここまで歩いて来て、こうして話を聞いておられる。もし米に「わしは未来永劫、米のままじゃ」という固い正体があったなら、炊いても噛んでも米のまま、誰の腹の足しにもなりはせぬ。空であればこそ、物は働き、巡り、命をつなぐのでござる。
波と水 「色即是空」ということ
般若心経に「色即是空、空即是色」という言葉がある。難しそうに聞こえるが、なに、海を見たことのある人なら誰でも分かる話じゃ。
海に波が立つ。大波、小波、白く砕ける波。一つひとつ、たしかにそこに「ある」。じゃが、波というものを海からすくい上げて、桶に入れて持ち帰れるか。持ち帰れませぬ。桶に入るのはただの水。波とは、水が風という縁を得て、いっとき取ったかたちの名にすぎぬからじゃ。
波に、水を離れた正体はない――これが「色即是空」。かたちあるものは、そのまま空である、ということ。じゃが話はそこで終わらぬ。水は、波というかたちを取らずには、目の前に現れようがない。空は、どこか別の世界にあるのではのうて、いま目の前で砕けておるこの波、この花、この人の顔として現れておる――これが「空即是色」でござる。
じゃによって、空を知るために、この世を捨てて雲の上へ行く要はない。波を消して水を探す者は、いつまでも水に会えぬ。波のまま、水と知ればよいのじゃ。
母であり、娘であり、女房であり
もう一つ、身にしみる話をしよう。
ここに一人の女子(おなご)がおるとする。子の前では母じゃ。親の前では娘じゃ。亭主の前では女房で、寺に来れば檀家、店に行けば客でござる。
さて、この人の「本当の正体」は、いったいどれか。
母か、娘か、女房か。どれも本当で、どれも仮のものじゃ。
子がおるから母と呼ばれ、親がおるから娘と呼ばれる。子が巣立ち、親を見送れば、呼び名の方は移ろうてゆく。つまり、この人には「これ」と一つに決まった正体がのうて、向き合う相手との縁のなかで、そのつど母となり、娘となり、女房となって現れておるのじゃ。
これが人というものの、ありのままの姿でござる。決まった正体がないから頼りないのではない。決まった正体がないからこそ、赤子には母の顔で笑いかけ、老いた親には娘の声で語りかけ、相手に応じて自在に働ける。もし「わしは母じゃ、母以外の何者でもない」と凍りついてしもうたら、親の前でも亭主の前でも母の顔しかできず、まわりはさぞ窮屈でござろう。空とは、この自在さの別名と思うてよい。
「わし」という氷
さて、いちばん手放しにくいのが「わし」というやつでござる。
みなさんは「自分というものはこういう人間じゃ」と、ずいぶん固く決めておられる。わしは気が短い、わしは駄目な人間じゃ、わしは人に負けられぬ、と。
じゃが考えてもみなされ。
五つの時の自分と、二十の時の自分と、いまの自分と、体の肉はとうに入れ替わり、考えることも好みもすっかり変わっておる。いったいどこを切って「これが変わらぬ本当のわしじゃ」と言えるのか。名前とて親のつけた符丁。気性とて、育った家、出会うた人、食うてきた飯で変わる。「わし」というのは、川の流れに名をつけたようなものでな、水は一瞬たりとも同じでないのに、「これは何々川じゃ」と一つ名で呼んでおるだけのことじゃ。
そしてな、凍った水は固い。かたちが決まっておる。決まっておるゆえに、器に添うことができず、ぶつかれば割れる。融けて水になれば、丸い器には丸く、四角い器には四角く添う。人の心も同じことじゃ。「わしはこういう人間じゃ」「あの人はああいう人じゃ」「世の中はこうに決まっておる」と凍りついておるあいだは、行く先々でぶつかって、割れて、痛い思いをする。空を知るというは、この氷が、もともと水であったと思い出すことにほかなりませぬ。
空は、こしらえるものではない
ここで、いちばん肝心なことを一つ申しておく。空と聞くと、修行をして心を空っぽに「する」ことじゃと思い込む人がある。座って、無念無想になろう、雑念を追い払おうと、うんうん力む。
じゃがな、それは氷を金槌で叩いて水にしようとするようなものでござる。砕けはしても、融けはせぬ。それどころか「雑念を消そう」という、その念こそがまた一つの氷でな、消そうとすればするほど、心はかえって固くなる。
よう聞きなされ。空は、こしらえるものではない。もともと、そうなっておるのじゃ。みなさんが生まれるより前から、烏の声は烏の声と聞こえ、花は咲いては散り、怒りは起こっては消え、万物は寄り合うては移ろうておる。みなさんの心は、親の産みつけてくだされたそのまま、初めから鏡のように何もとどめぬようにできておる。わしはこれを「不生(ふしょう)の仏心」と呼んでおる。不生とは、こしらえられたものではない、ということ。こしらえられたものでないから、壊れることもない。
みなさんは、その結構な仏心ひとつを持って生まれながら、わざわざそれを短気に取り替え、愚痴に取り替え、「わし」という氷に取り替えて、みずから難儀しておられる。取り替えさえせねば、仏心は仏心のまま。空は悟るまでもなく、初めからみなさんの足もとにござるのじゃ。もったいない話ではござらぬか。
明日からの心得
では明日から、どう暮らせばよいか。難しいことは何も要りませぬ。
腹が立ったら、退治しようとせず、押し込めようともせず、ただ「ほう、起こったな」と眺めておりなされ。
雲が湧いては流れるのを見るようにな。
実体のないものは、つかまえて相手にせぬかぎり、長居はできぬものでござる。相手にするから育つのじゃ。
人を見るときは、「この人はこういう人じゃ」という札を貼りかけたら、その札を少しはがして、「今日の、この場の、この人」を見なされ。
十年前の遺恨で今日の相手を測るのは、去年の暦で今日の月日を数えるようなもの。相手も空、こちらも空、日々あらたに出会い直せるのが、空のありがたいところでござる。
そして自分に貼った札も、同じようにはがしてよい。「わしは駄目な人間じゃ」――それもまた、縁が寄っていっとき立った思いにすぎぬ。固い正体のないものを、後生大事に抱えて歩く要はござらぬ。
人の褒め言葉、貶し言葉も同じでござる。山に向かって呼べば、山彦が声を返す。山は褒められて浮かれもせず、罵られて怒りもせず、来た声をそのまま返して、あとには何もとどめぬ。ところが人は、褒め言葉を三日抱いて浮かれ、貶し言葉を三十年抱いて恨む。言葉というものは、口を出たとたんに消える、空なるものの最たるものじゃ。消えたものを胸の内で飼い続けておるのは、当の相手ではのうて、こちらでござるよ。山彦の山ほどの度量とまでは言わぬ、せめて一晩寝たら、来た声は来た声のまま、風に返してやりなされ。
むすび
空とは、冷たい理屈ではない。
すべてのものが、決まりきった正体を持たず、寄り合い、支え合い、移ろいながら、いまここに生き生きと現れておる。
その在り方に、はたと気づくことでござる。気づいた人は、ものを軽く持てるようになる。深くつかんで、軽く持つ。花の散るのを惜しみながら、散るからこそ美しいと知る。
みなさん、空を書物の中の難しい学問と思いなさるな。烏がひと声鳴いたら、それがもう空の説法。飯が炊けたら、それがもう縁起の講義でござる。今日はこれまで。道中、気をつけてお帰りなされ。
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