ドイツでの坐禅指導について
初心の心 「わからないまま、ここにいる」という贈りもの
私は17年にわたり、多くの方々と共に坐ってきました。
その中で私自身も、何度も迷い、立ち止まりながら坐ってきました。
海を越えたこの地で、さまざまな背景を持つ方々と向き合いながら、私がずっと大切に伝えてきたことがあります。
それは、何かを成し遂げるための修行ではなく、今この瞬間の自分に「還る」ための時間です。
もし今、あなたが日々の生活の中で、言葉にならない生きづらさや、何かに追い立てられるような焦燥感を感じているのなら、少しだけその荷物を横に置いて、この言葉に耳を傾けてみてください。
1. 「わからない」という勇気
私たちは幼い頃から、
「早く理解しなさい」
「正解を導き出しなさい」
「成果を出しなさい」
と教え込まれてきました。
現代はあまりにも答えが多すぎる時代です。何でも検索すれば答えが見つかり、効率よく生きることが正しいとされています。
しかし、その速さの中で、私たちは「自分の心の声を聴く力」をどこかに置き忘れてはいないでしょうか。
坐禅の門を叩くとき、多くの人が
「どうすれば正しく坐れますか?」
「悟りとは何ですか?」
と答えを急ぎます。
しかし、坐禅において最も大切なのは、実は「わからないまま、ここにいる勇気」を持つことです。
「初心」という言葉があります。これは、何かを新しく学び始める時の心だけを指すのではありません。すでに知っていると思い込んでいる色眼鏡を外し、今この瞬間を「初めての日」として生き直す心のことです。何かを得ようとするのではなく、すでに自分に与えられている豊かさに気づく心。あなたは今日、新鮮な気持ちで目覚めたでしょうか。自分が息をしていることに、そっと意識を向けてみたでしょうか。
「わからなくていい」
まずは自分にそう言ってあげてください。
悟ろうとしなくていい、理解しようとしなくていい。
ただ、そのままのあなたで坐ってみる。そこからすべてが始まります。
2. 沈黙が教えてくれること
禅堂では、基本的に言葉を交わしません。私たちは日常、言葉によって自分を守り、自分を飾り、誰かと自分を比べて安心したり傷ついたりしています。言葉は便利な道具ですが、時に私たちの心を縛る「鎧(よろい)」になってしまうことがあります。
沈黙の中で坐ってみると、その鎧が少しずつ、一枚ずつ外れていくのを感じるでしょう。言葉による思考が静まったとき、五感が静かに澄んでいきます。
外から聞こえてくる鳥の声、隣で坐る人の穏やかな呼吸の音、そして自分自身の内側で刻まれる鼓動。それらを「良い・悪い」と区別することなく、ただあるがままに聴いてみてください。そのとき、「自分という個体が孤立して存在している」という感覚は、境界線を失い、周囲の空間へ自然に溶けていきます。
坐禅とは、沈黙を守る修行というよりも、むしろ「深く聴く修行」なのです。自分を取り囲む世界と、自分自身の内側にある静けさが、一つのハーモニーのように響き合う。その心地よさを、ただ味わってほしいのです。
3. 身体の声を聴き、調える
坐禅の実践では、
よく「調身(ちょうしん)・調息(ちょうそく)・調心(ちょうしん)」
と言われます。まず姿勢を整え、次に呼吸を整えることで、心は自然と整っていくという教えです。
背筋をすっと伸ばし、肩の力を抜き、おへその下(丹田)に意識を置いて、ゆったりと呼吸を繰り返します。浮かんでくる思考を無理に止めようとする必要はありません。考えが浮かんできたら「ああ、今自分はこう考えているな」と、ただ空を流れる雲を眺めるように観てあげてください。追いかけず、拒まず、評価しない。それが自分を大切にするということです。
もし、足に痛みが出たら、どうかその痛みと戦わないでください。「痛みを感じている自分」を、少し離れたところから優しく見守ってあげましょう。眠気に襲われたなら、それも今のあなたの身体の状態です。坐禅は決して、自分を痛めつける「我慢大会」ではありません。
足が辛い方は、椅子を使って坐っても全く構わないのです。仏教で大切なのは形ではなく、あなたの心のあり方だからです。自分を縛る力を少しずつ緩め、身体を「ほどいていく」時間だと思ってください。
4. 小さな悟りと、日常の灯
多くの人は、悟りとは何か劇的で、天から光が降り注ぐような特別な体験だと思っています。しかし、私が17年の指導を通じて実感しているのは、もっと静かで、ささやかな「変化」のことです。
呼吸がふと深くなり、「ああ、自分は今、こうして生きているのだ」と静かに感じる瞬間。それまで当たり前だと思っていた一碗のご飯が、無数の命や人々の手に支えられてここに届いたのだと気づき、自然と頭が下がる瞬間。世界は昨日と何も変わっていないのに、自分の見え方だけが少し柔らかくなり、他者への優しさが内側から滲み出てくる。
私はそれを「小さな悟り」と呼んでいます。
お釈迦様は「自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)」という言葉を残されました。「自分自身を灯とし、法(真理)を灯として歩みなさい」という意味です。外側に答えや救いを求めすぎる必要はありません。あなたの内側には、すでに小さな灯がともっています。静かに坐る時間は、その灯を覆っていた埃を、そっと払う作業のようなものです。
5. 「ここにいていい」という安らぎ
坐禅会は、何かを成し遂げる場所ではありません。
あなたが「私は私のままで、ここにいていいのだ」
と思い出すための場所です。
完璧である必要はありません。立派な人間になろうとしなくていい。ただ、一緒に坐りましょう。誰かと肩を並べて静寂を共有するだけで、人の心は不思議と癒やされていくものです。
その静けさの中で、あなたは誰の評価も気にすることなく、自分の歩幅で、自分の人生をもう一度生き直していくことができます。
今、この瞬間から、新しく始めてみませんか。
あなたの呼吸が、少しでも軽やかになることを願っています。